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福岡高等裁判所 昭和31年(う)935号 判決

控訴人 被告人 崔仁和

検察官 中野和夫

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人諫山博提出の控訴趣意書記載のとおりである。

右に対する判断。

(一)  事実誤認の点について。

原判決摘示の事実は、原判決の挙示引用にかかる証拠によつてこれを認定するのに十分であり、証拠の取捨、証明力に関する原審裁判官の判断に、経験法則の違背等特に不合理とすべき事由なく、仮りに所論の日曜日二日分の賃金は労務者の当日の就労に対するものでなかつたとしても、それが労務者の就労資格並びに他の就労日における就労の事実を前提とするものであることは、記録上明白であるから、所論の右事由は被告人の判示犯罪の成立を否定するに足りないこと明かであつて、原判決に所論のような事実誤認の違法があるものとは認められない。論旨は理由がない。

(二)  手続法令の違反の点について。

検察事務官梅丸守の面前における被告人の論旨指摘の供述が被告人に対する本件公訴の提起された昭和三〇年九月二三日の後である同年一〇月三日にされたものであることは、記録に編綴されている本件起訴状並びに右供述調書の各日附の記載によつて明かである。所論によれば、右の供述は刑訴第一九八条の規定に違反し証拠能力がないというのであり、同規定が取調の時期につき明文をもつて別段の制限を加えていないからといつて、検察官、検察事務官又は司法警察員は、公訴提起の後においても当該事件につき無制限に、公判の審理と併行して、公訴提起の前におけると同様に、被告人を取り調べることができるものと解することの不当であることは、刑事訴訟上被告人に認められる当事者たる地位に鑑みて、ほとんど多言を要しない。

しかし、既に公訴の提起された訴因とは別個に、訴因外の罪の容疑があつて、もし相当の証拠が蒐集されるにおいては追起訴または訴因追加等の措置が相当であると認められる事情の存する場合には、さきに提起された公訴のゆえに訴因外の犯罪の捜査が制限さるべき理由は全くないのであるから、公訴提起の後における被告人の取調であつても、それが訴因外の罪に関するものであるときは、これを違法とすべきいわれのないことはもとより言をまたないところであるのみならず、訴因の罪と訴因外の罪とが事実上もしくは証拠上密接な関連がある場合、訴因外の罪に関する被告人の取調が訴因の罪に関する事項にもわたることは、むしろ自然の成行でもあり、そのことのゆえに、訴訟における被告人の当事者たる地位が特に脅かされるものとも認められないのであるから、捜査官による被告人のかかる取調は、適法であると解するのが相当である。

今本件についてこれを見るに、本件起訴状掲記の訴因の要旨によれば、被告人は、実兄崔得干名義の失業対策事業就労適格者証等を不正に使用し、同人就労の事実がないのに恰かもその事実があるもののように装い、大牟田公共職業安定所労働課繰込場係員、大牟田市役所労働課賃金係員等を欺罔し、崔得干の就労に対する賃金名義のもとに、昭和三〇年七月四日から同年八月七日までの間九回にわたり、合計金二、三二二円を受取り騙取したものである、というのであり、検察事務官梅丸守の面前における被告人の前記供述調書中には、「実兄崔得干は、殺人未遂事件により昭和二八年一一月一八日大牟田警察署に逮捕されて以来、引続き身柄拘束のまま審理裁判を受け、懲役五年の刑に処せられて服役中でありますが、私が兄得干の就労カードを安定所の窓口に差込んで、働きもしない得干の賃金を貰い始めたのは、兄が右のように大牟田警察署に検挙されたその翌日からであります。お示しの就労点検簿写は、安定所の帳簿によつて調べられたもので間違いないものと思われますが、そのうち、同じ日に私も就労し兄も就労したことになつている分は、その日に兄が全く就労していないこと明白であります。次に失業保険のことでありますが、日雇労務者は、就労することのできなかつた場合失業保険金がもらえることになつていて、私も何回かもらつたことがありますので、兄得干の分ももらおうと思い、兄の名義で失業保険金をもらいました。その回数は何十回とあります。お示しの日雇労働被保険者失業保険金支給台帳は、安定所の帳簿で、それに押してある「崔」の判は兄得干の判であり、判の押してある部分は全部もらつたものに相違ありません。」旨及びその他の記載があるのである。

そして、右の供述調書、本件起訴状、検事新川吹雄の面前における被告人の昭和三〇年九月一四日附、検察事務官梅丸守の面前における被告人の同月二二日、向月二三日附の各供述調書の記載その他の証拠に徴するときは、被告人に対し本件起訴状掲記の訴因のほかに、追起訴もしくは訴因追加等の措置は行われなかつたのであるが、被告人に対しては訴因の罪以外にこれと手段方法を同じくする崔得干の就労賃金名義による詐欺並びに同人の失業保険金名義による詐欺の罪の嫌疑が、訴因の罪の捜査中に発見された諸帳簿その他の証拠に既に現われていて、もし相当の証拠が蒐集されるにおいては、追起訴または訴因追加等の措置が相当であると思料される事情の存したところから、昭和三〇年一〇月三日検察事務官梅丸守によつて行われた被告人の前記取調は、主として訴因外の右犯罪の捜査を目的としたものであつて、訴因外の罪と訴因の罪とが、事実上並びに証拠上きわめて密接な関連があつたため、その取調はたまたま訴因の罪に関する事項にも及ぶに至つたのにすぎず、公訴提起の後に訴因の罪に関し公判の審理と併行して行われたものでないことが明白である。このことは、原審第一回公判が昭和三〇年一〇月六日であるのに、右の取調はその前である同月三日に行われた事実によつても要旨ますますこれを確認しうるところである。

このように、捜査官による被告人の取調が、既に公訴の提起された訴因の罪の捜査を主眼とするものでなく、主として訴因外の罪の捜査を目的とするものであるときは、右両者の罪の間に事実上並びに証拠上きわめて密接な関連があり、ためにたまたま訴因の罪に関する事項に及ぶものがあつても、刑訴第一九八条の規定の趣旨に反するものではないと解するのが相当であること冐頭説示のとおりであり、それが公訴提起後の取調であるという一事をとらえて、所論のようにこれに証拠能力を否定すべき理由はない。これを証拠として採用した原判決に、所論のような手続法令の違反があるものとは認められず、論旨は採用し難い。

三 量刑不当の点について。

記録並びに証拠に現われている本件犯罪の動機、態様その他諸般の犯情に照らし、原判決の刑の量定は相当であると認められ、特にこれを不相当とすべき事由なく、所論の諸点を参酌考量しても、なお原判決の刑の量定が相当でないものとは断じ難い。論旨は採用の限りでない。

よつて、刑訴第三九六条により本件控訴を棄却し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下川久市 裁判官 柳原幸雄 裁判官 岡林次郎)

弁護人諫山博の控訴趣意

第一点、原判決は事実の認定を誤り、無罪たるべき被告人に有罪判決を言渡しているので、破棄さるべきである。被告人は第一回公判で「公訴事実は間違つています。実は長兄崔天竜が次兄崔得干の手帳で身代りに働いていたので、私は長兄から頼まれて四、五回就労賃金を受取つてやつたことがあるだけでして、全然働かずに騙取したのではありません」(十一丁裏)と述べ、弁護人は第九回公判における最終弁論のなかで、「本件は被告人の弁解通り兄天竜の犯行であると思料する」(一八五丁裏)と弁論している。被告人及び弁護人の主張のように、長兄崔天竜が次兄崔得干の身代りとして働き、被告人は天竜から頼まれて就労賃金を四、五回受取つてやつたにすぎないということになると、被告人に対する詐欺罪は成立しないことになる。この事件の争点は、右のような被告人の陳弁が、真実であるかどうかということになる。

検察官は、崔天竜が就労したという主張を、頭から虚偽ときめてかかつている。崔天竜は失対人夫として登録されたことのない男であるから(崔天竜証言一一八丁表)、崔天竜が失対人夫として就労したことがあるとすれば、それは誰か他人の名前で、他人の就労カードを使つて働いたということになる。この場合、他人というのは、被告人の兄で、崔天竜には弟にあたる服役中の崔得干以外にはあり得ない。それでは、崔天竜は失対人夫として働いたことがあるのだろうか。このことを一番よく知つているのは、崔天竜及び崔天竜と同居している弟の被告人ということになろう。崔天竜本人は、第七回公判において、「得干が不在になつて以来私が引続いて得干のカードで働いています」、「月に二十一日位の計算で二年間働いています」(一一八丁裏)と証言し、被告人は第九回公判で裁判官の尋問に対し、崔天竜が得干のカードを使つているのを知つたのは、「得干が家を出て十五日位後です。実は得干が居なくなつてから直ぐ天竜が仕事に出ていたので、私は単純に出られるようになつたものと思つていました」(一九八丁裏)と供述している。崔天竜及び被告人の公判廷における供述はこうなつているが、同人等の警察官検察官に対する供述調書の記載内容は、これと違う。崔天竜は、昭三〇、九、十六警察官調書のなかで、「私は一度も失対人夫をしたことはありません。(中略)私は兄弟や他人の名義である就労カード等を頼まれて替つて失対人夫として働いたことも、賃金をもらつた事もありません」(一二七丁表)と述べ、被告人も昭三〇、九、十三警察官調書で、「私の家族で安定所の許しをうけて失対人夫で働いているものは私だけで崔天竜は今迄一度も安定所の人夫をしたことはありません」(一三一丁裏)、と供述している。崔天竜及び被告人の警察官に対する供述調書では、公判廷における供述と反対に、崔天竜は一度も失対人夫として就労していないことになつている。これだけをみると、崔天竜と被告人が、警察官の前で真実を述べていたのに、公判の段階になつて、意識的に虚偽の供述をしているのではなかろうかという疑いも出てくる。検察官は、そういう立場から、証人石橋邦彦、李永奉などの証言を援用して、被告人が公判廷で虚偽の陳述をしていることを立証しようとした。しかし、崔天竜も被告人も、何かの事情で、崔天竜が失対人夫として就労していたということを、警察官の前で言い切れない事情があつたのではなかろうかということも、もちろん考えられる。両名の公判廷における供述と、公判廷外の供述を比較検討するだけでは、どちらが本当かという結論は出しにくい。だが、崔天竜及び被告人以外の第三者の供述または証言をみると、その間の事情が、だいたい正確に認定できる。大牟田市の失対人夫で、自由労組中友支部労働部長をしていて、崔天竜及び被告人を昭和二十七年八月頃から知つているという長谷川重義の公判廷における証言によると、崔天竜は失対人夫として就労しており、準監督という指導的地位にまでついていたということである。

崔天竜は失対人夫として就労している期間、例えば昭和三十年二、三月頃、中村現場監督とけんかして傷害を負わされたり、昭和二十九年十一、二月頃、県土木事務所前の賃金受渡場で県のトラツクと自転車を衝突させて修繕を要するような破損をうけたりしたようなこともあつたくらいで、崔天竜が失対人夫として永く就労していたことは、否定できない事実のようである(一一三丁)。失対人夫李永奉も、第六回公判における検察官の「崔天竜が誰のか分らぬカードを窓口に出しているのを見たことはあるか」という問に対して、「はい何回か出しているのを見ました」と答えている(八二丁裏)。李永奉の昭三〇、十、十五検察官調書のなかでも同人は、昭和二十九年十一月頃から同三十年七月頃までの間に、職業安定所の窓口で崔天竜の顔を五、六回か十回ぐらいは見たと述べている(同調書第八項、一〇〇丁裏)。また、大牟田公共職業安定所勤務労働事務官中島光雄は、服役中の崔得干は、原簿上は八月二十七日まで就労したようになつているが、八日二十八日以降就労したことになつていないのは、八月二十八日に窓口で崔天竜が崔得干の就労カードを使用しようとしたのを発見されたからであると証言している(一八九丁裏)。こういう第三者の証言または供述から判断すると、崔天竜が失対人夫として就労したことがないとは、とうてい考えられない。訴訟記録のなかでは、失対人夫の準監督というのがどういう仕事をし、またどういう人が就任するのか明らかにされていないけれども、相当長期間就労した経験のある人夫でないと準監督というような監督的地位につけないだろうということは、常識的に判断される(この点について第二審においてさらに立証するつもりである)。してみると、崔天竜が公判廷でいつているように、「得干が不在になつて以来私は引続いて働いて得干のカードで働いています」、「月に二十一日位の計算で二年間働いています」(一一八丁裏)というのが真実に近いもののようである。

その反面、崔天竜の昭三〇、九、十六警察官調書中、「私は一度も失対人夫をしたことはありません。(中略)賃金をもらつたこともありません」(一二七丁表)という記載部分は、信頼できないということになる。被告人の昭三〇、九、十三警察官調書中、「崔天竜は今迄一度も安定所の人夫をしたことはありません」(同調書第七項一三一丁裏)とある部分及びその他の警察官検察官に対する供述調書中同旨の供述部分も、上述の他の証拠に照らし、真実を述べたものとは考えられない。また、「崔天竜が職安の労働課の紹介をうけたり或は現場で働いているのを見たことはありません」(六九丁裏)という第五回公判における石橋邦彦の証言も、右のような動かすことのできない第三者の証言の前には、その真実性を疑わざるを得ないことになる。それでは、崔天竜が失対人夫として就労したことがあるというこれほど明らかな事実について、崔天竜と被告人はなぜ警察官検察官に対して虚偽の供述をしたのであろうか。これは、取調当時に右両名が立たされていた苦しい立場を考えれば分る。崔天竜は服役中の崔得干の名前を使い、崔得干の就労カードによつて就労していたが、こういう便法による就労は、事実上相当広く行われていたとはいうものの、公式に取りあげられるならば、不正な方法による就労であることは否定できないことである。崔天竜としては、二年もの間崔得干になり済まして働いていたのであるから、これがばれたら大変だという気持で、崔仁和に対する迷惑ということには考えもつかずに失対人夫として就労したことはありませんと供述したのではなかつたろうか。そうだとすれば、崔天竜が警察官に対して、人夫として就労したことはないと虚偽の供述をした気持が理解できる。被告人は警察官に対して、一度は被疑事実を否定している(被告人の昭三〇、九、十三警察官調書には、昨日私は崔得干の名を使つて人夫賃金を騙し取つたことはないと嘘を申し上げていましたが、間違つておりましたので、今日は本当のことを申上げますという記載がある。右調書第八項一三一丁裏)。被告人が第一回警察官調書で、どういう内容の否認をしたのかは、否認調書が公判廷の証拠として提出されていないので分らないが、被告人は九月十三日以降になつて虚偽の供述をするようになつた動機を、第九回公判廷において、「兄天竜の犯行だといえば二人とも逮補されることになるから、お前の犯行といつたがよいといわれたからです。検察庁では、警察の通り述べたのです」(一九七丁裏)といつている。被告人が警察検察庁において、兄崔天竜に迷惑がかからぬように心をくだいていたことは、被告人の供述調書の各所に出ている。昭三〇、九、二二警察官調書中の、「崔天竜は学校にも行つておらず、私のカード等と思つて持つて行つたもので、崔得干のものとは知らなかつたのです」(同調書第五項一五三丁裏)というような記載は、その代表的なものである。被告人のこの弁解も、充分納得のいくものである。他に証拠がないのなら、公判廷における崔天竜の証言や被告人の供述を疑うことも出来ようが、本件のように、他の第三者の証言が崔天竜や被告人の警察官調書と矛盾しており、その反対に、公判廷における供述とは合致しているような場合には、公判廷における証言や供述が、事実認定の資料として採用さるべきである。以上によつて、崔天竜が失対人夫として、崔得干の就労カードを使用して就労していたことは、明らかになつた。その就労回数も、かなり多かつたにちがいないということも、見当がつく。しかし、はたしてその回数は何回で、就労したり賃金を受領したりした期日はいつだつたかということについては、第一審で審理がつくさていないため、認定をくだすことができない。この点の審理がつくされていたならば、被告人は、「長兄、(崔天竜)から頼まれて四、五回就労賃金を受取つてやつたことがあるだけ」(第一回公判における供述、一一丁裏)であるという被告人の主張の正しさが、証明されることになつたのではないかと考えられる。

この事件の判断をむづかしくしているのは、被告人が公判廷では公訴事実を否認しているのに、捜査官の前ではそれを認めていることである。しかし、被告人の捜査官の前における供述が、崔天竜の就労という重要な問題について、動かすことのできない虚偽を含んでいたことは、すでに指摘したとおりである。その他にも、被告人の警察、検察庁における供述は、明らかな虚偽や矛盾を数多く含んでいて、とうてい信用できるものではない。被告人が崔得干のカードで金を取りはじめた時期は、昭三〇、一〇、三検事調書では、「兄得干が警察に勾留せられてからその翌日から」(同調書第二項一七九丁裏)となつているが、昭三〇、九、一三警察官調書をみると、はじめ長兄崔天竜が崔得干の名前で働きに出ていたが、「昭和三十年一月頃になつて、(崔天竜が)安定所の人夫にも出られなくなりました。(中略)そのように兄天竜が働きに出られなくなりましたので、私はその崔得干のカードや手帳を使つて金を取つてやろうと思いつきました」(同調書第八項、第九項)一三二丁表、一三三丁表)となつている。被告人が崔得干の名前で、崔得干のカードを使つて賃金を詐取したという供述が本当なら、どういう動機で、いつから崔得干の名前を使いはじめたかというようなことは、被告人としては忘れるはずのないことである。ところが、忘れるはずのないと思われるこの問題について、被告人の警察官調書と検事調書の記載には、こんなに大きな喰い違いがある。この喰い違いは、被告人の供述調書の真実性に疑問を抱かせる有力な一資料である。また、被告人の昭三〇、九、十三の警察官調書のなかにおいてさえも、あるところでは、「一番上の兄崔天竜がカードの名も変えず代つて崔得干の名で働きに出しておりました。それも生活に困つたからであります」(同調書第八項一三二丁表)、「そのように兄崔天竜が崔得干の名で働きに行つておりましたが、(中略)本年一月頃になつて安定所の人夫にも出られなくなりました」(同調書第九項一三二丁裏)と述べられているのに、同じ調書の他の部分では、「私の家族で安定所の許しを受けて失対人夫で働いている者は私だけで、崔天竜は今まで一度も安定所の人夫をしたことはありません」(同調書第七項、一三二丁裏)となつている。同一の供述調書のなかにも、こんなに明白な矛盾が含まれているのである。被告人の捜査官に対するこのような矛盾した供述を、われわれは措信することができるであろうか。だが、その喰い違いの最大のものは、被告人の自供に基いて作られたという犯罪表(一五六丁ないし一七五丁)である。被告人の昭三〇、九、二二警察官調書によると、被告人は同調書末尾に添付されている「犯罪表第二項ないし第四八七項(三二四項欠)を読み聞かせたところ、誤りのないことを申立てた」(同調書第六項、一五三丁表)ということである。この犯罪表というのは、昭和二十八年十一月十九日以降昭和三十年七月二十七日までの間に崔得干の名前で被告人が騙取したと自認した詳細な犯罪一覧表であるが、被告人がどういう記憶にもとずいてこの表の記載を誤りないと申立てたのかは明らかでない。こんな詳細な犯罪一覧表の真偽について、記憶のみでその真実性を証言できるはずはないから、この点は、警察官にいわれるとおり、はいはいと無責任な返答をしていたものとみるほかはないだろう。だが被告人の自供にもとずいて作つたとされている被告人の昭和三〇、九、二二警察官調書の一部をなしている犯罪表が虚偽であることを証明する何よりの資料は、第四回公判で検察官から証拠として提出され、弁護人が証拠とすることに同意した大牟田職業安定所長野田国利の申立書附属の就労点検簿(五八丁ないし六〇丁、以下就労点検簿とよぶ)である。犯罪表と就労点検簿を比較検討すると、犯罪表のでたらめには、ア然たらざるを得ない。犯罪表のうち、最も新しい期間の部分だけをぬき出して調べてみよう。犯罪表では、七月中は二四日及び二七日に、被告人が崔得干名儀で働いたことになつている。しかし就労点検簿では、七月二十四日及び二十七日には、被告人も崔得干も就労していないことになつている。だから、七月二十四日及び二十七日に被告人が崔得干の名前で就労したという犯罪表の記載は、虚偽であつたということになる。昭和三十年六月には、犯罪表によると二〇日、二二日、二七日被告人が崔得干の名前で働いたことになつている。一方就労点検簿をみると、右の三日間のうち、六月二二日と二七日には、被告人も崔得干も就労していない。ということは、犯罪表の記載のうち、六月二二日と二七日の事件なるものは、虚偽であるということである。

昭和三十年五月中の詐欺期日は、犯罪表によると十八日、二三日、二九日になつている。このうち十八日は被告人だけが働いているが、崔得干は働いていないことになつている。また、就労点検簿をみると、五月二三日、二九日には、被告人も崔得干も両名と働いていない。その他、犯罪表と就労点検簿の喰い違いは、昭和三十年四月以前の分も大同小異であつて、犯罪表のでたらめさには、あきれるばかりである。被告人の、このようなばかげた供述を、どうして信用することができようか。

公訴提起の対象になつた昭和三十年七月四日以降八月七日に至る間の詐欺についても、右と同様のことが推定あれる。第一におかしいのは、公訴提起事件は、大部分が犯罪表の記載に入つていないことである。七月四日以降八月七日までの十回にわたる詐欺事件が起訴されるようになつた根拠は、大牟田市長細谷治嘉名儀の被害始末書である。この被害始末書に書かれた被害年月日をもとにして、検察官は被告人の犯罪期日を主張している。被害始末書が書かれたのは、昭和三十年八月二十五日であるが、これに符合する被告人の供述書が作成されたのは、昭和三十年九月十三日以降である。昭三〇、九、十三警察官調書のなかで、七月四日に被告人が詐欺したという事情が、詳しく述べられている(同調書第十項以下一三五丁裏)。だが、九月十三日の取調べにおいて、七月四日という期日が被告人の記憶に残つているはずはないから、七月四日という日附は、大牟田市長の被害届をもとにして警察官が被告人に問いただし、被告人は七月四日という確かな記憶もないのに慢然と七月四日の犯行なるものを認めたとみるべきであろう。その供述が信頼すべからざることは、前述した被告人の供述の数多くのでたらめさから推認できる。それ以後の七月七日、九日、十一日、二十二日、二十三日、三十日、三十一日、八月七日の犯罪期日は、逮捕状の期日を、被告人が認めたことが起訴の証拠になり、また原判決の犯罪期日のもとになつている(被告人の昭三〇、九、十三警察官調書第十一項一三五丁裏)。しかし、逮捕状の犯罪日附は大牟田市長の被害届と同じであるから、けつきよく、被告人は被害届の被害期日を鵜呑みにして、それを無批判に自己の犯罪期日として認めたにすぎないものである。こういう有様であるから、そこに、捜査官の気ずかない思わぬ矛盾までが暴露される結果になつている。被告人は、詐欺の手段として、「自分の分と崔得干の手帳を」窓口に提出するという方法で詐欺したと述べている(昭三〇、九、十三警察官調書第十項)。原判決が認定した詐欺手段も、そうである。そうだとしたら、被告人が崔得干のカードを提出し、崔得干の名前で賃金を請求した期日には、被告人も、やはり自分の就労カードを提出して、就労したことになつていなければならないはずである。崔得干だけが就労し被告人が就労しなかつたという日は、あり得ないわけである。ところが、就労点検簿によると、昭和三十年七月二七日には、崔得干だけが就労し、被告人は就労していない。この日、被告人が就労していないとすれば、崔得干が就労したような手続をとつたのは誰であろうか。昭和三十年六日二九日、五月五日、五月十日、五月十七日などになつても同様の疑問が出てくる。これらの日附には、被告人は就労していないのに、崔得干は就労したことになり、崔得干の名前で賃金が支払われているからである。(就労点検簿)。被告人が就労しなかつた日に、崔得干のカードを安定所の窓口に提出し、崔得干の名前で賃金を受取つたのは誰か、それは崔得干の身代りとして働いたという崔天竜以外には、あり得ないではないか。それにもかかわらず、逮捕状には昭和三十年七月二七日も被告人が崔得干の名前で賃金を詐取したと書かれており被告人も昭三〇、九、十三警察官調書まで、そのことを肯定している。被告人が就労もしていない日に、被告人が職業安定所の窓口で自己の就労カードと一諸に崔得干の就労カードを提出するというようなことはあり得ないので、七月二七日に被告人が労務賃金を詐取したという供述が間違つていることは明らかである。検察官はさすがにこの誤りに気がついたのか、被害届及び逮捕状に記載されている犯罪期日のうち、被告人が詐取していないことの明らかになつた昭和三十年七月二七日の事件については、公訴を提起しなかつた。栓察官がそこまで気がついているのであれば、七月二七日に被告人が崔得干の名前で賃金を受取つたという供述が信頼できないものと同じく、その前後の例えば、七月四日、六日、九日、十一日、二二日、二三日、三十日、三一日、八月七日の事件の供述も、七月二七日の事件の供述と同様の方法でなされたものであるから、それと同様に信頼できないとみるのが妥当ではなかろうか。被告人のでたらめな犯罪自白のうち右九回については、自白のでたらめさを積極的に否定する証拠がなかつたからといつて、簡単に被告人の犯罪事実を認定した原判決の態度は、事実認定に慎重さを欠いたものといわれても仕方がないであろう。この事件を冷静にながめるならば、崔得干が就労していないのに、原判決が認定した九回の期日及び七月二十七日、崔得干の名前で賃金が支払われていることは、大牟田市長の被害届の記載からみて、否定できない事実である。被告人が右被害届記載の事件は、全部自分でやつたもののような自白をしていることも間違いない(昭三〇、九、十三警察官調書)。だが、その自白はまつたく無責任に、機械的になされたものであつて、被告人の責任ある判断のもとになされたものでなかつたこともまた、否定できないことである(供述内容のさまざまの喰違い、犯罪表のでたらめさ、また被告人がやつていないことの明らかな七月二七日事件の自白)。そうだとしたら、この事件の結論としては、大牟田市長の被害の事実と、それに相談する信頼すべからざる被告人の自白しか存在せず、被害と被告人の結びつきを証明する信頼すべき資料は、他に何も残らないということになる。一方、被告人の無罪を立証するかのごとく、被告人がやつていないことの明らかな七月二七日に、何者か(恐らくは崔天竜)が、崔得干の名前で賃金を受取つているという事実がある(被害届、就労点検簿)。また、崔得干の就労カードを使用しているのを発見されたのは、被告人ではなく、崔天竜であつたという事実もある(中島光雄の証言)。そうすると、七月二七日の前後に崔得干の名前で賃金をうけとつたのが、被告人ではなくして、崔天竜であつたということがどうしていえないのであろうか。弁護人としては、崔得干の名前で賃金を受取つていたのは、被告人ではなく、崔天竜であり、崔天竜は崔得干の名前で就労して、その賃金を受取つていたのであると信じている。被告人が崔得干の名前で判示期日に賃金を詐取したとするには、何といつても証拠不充分である。最高裁判所が有罪証明の程度として要求している「合理的な疑いの余地」を残さない立証には、本件被告人についてはなされていないと考える。したがつて、原判決破棄のうえ、被告人に無罪判決が言渡さるべきである。しかしこの点でさらに疑問を持たれるようであつたら、御庁において再度事実審理をしていただくように希望する。

第二点、原判決が、公訴提起後に作成された「被告人の昭和三十年十月三日附検察事務官に対する供述調書」を事実認定の資料に採用したのは違法である。新刑事訴訟法は被告人に対して検察官と対等な「当事者」としての地位を保障している。このことは、被告人を証拠方法の一つとみていた旧刑訴法的な考え方を、真向から否定するものである。だから新刑訴法には、検察官が被疑者を取調べる制度(刑訴法第一九八条)はあるが、被告人を取調べる制度はない。被告人尋問に関する規定は、刑訴法第三一一条があるだけであつて、被告人については、刑訴法第一九八条に類する条文はないからである。もつとも、被告人を公訴提起された事件と異る事件について取調べることは、当事者対等の原則に反するものとはいえないであろう。しかし、公訴提起された事件について被告人を捜査官が取調べることは、新刑事訴訟法の当事者対等の立場から見て違法であり、学説もこの見解を支持している(滝川幸辰外著刑事訴訟法コンメンタール二六二頁、四一八頁)。本件において、被告人は昭和三十年九月二十三日に詐欺罪で起訴されているが、起訴された事件について、同年十月三日に福岡地方検察庁大牟田支部検察事務官梅丸守によつて供述調書が作成され、その調書のなかでは、「詐欺被疑事件」について「被疑者」に尋問し、「被疑者」は任意供述した旨の前書が書かれている。だがこの供述調書が作成されたときには、崔仁和は被疑者ではなく、被告人であつたはずである。被告人に対するこのような取調は違法であり、しかもこの供述調書は、本事件の内容について詳細に述べられているので、違法に作成されたこの供述調書が原判決の事実認定の証拠に採用されている以上、原判決の結果に何らかの影響を及ぼさなかつたものとは考えられない。よつて原判決は破棄さるべきである。

第三点、原判決の刑の量定は不当である。弁護人は、控訴趣意第一点に詳述したように、被告人の無罪を信じている。しかし、被告人がかりに有罪判決の言渡しをうける場合を仮定しても、懲役十月という原判決の刑の量定は、いちぢるしく過重である。被告人が詐欺をやつたという供述が本当だとすれば、それこそ被告人が支柱となつて働いても追いつかない家庭生活の苦しさのあまりだつたろうと思われる。被告人は永く日本に居住していたが、現在まで食糧管理法違反による罰金刑の言渡しをうけた以外には、前科がない。被告人が失対人夫として一生懸命働いていたことは、多くの証人が認めている。被告人は供述調書のなかで、十数万円の賃金を詐取したかのように自供したことがあつたが、この自供が信頼できないことは、控訴趣意第一点で述べたとおりである。公訴提起の対象とならなかつた事件については、検察官は刑事政策的考慮から不起訴にしたのではなく、「厳格なる証明」が不可能であるという立場から起訴しなかつたものと思われる。量刑判断の資料には、必ずしも厳格なる証明を要しないという通説的立場をとるとしても、本件のように、検察官が厳格なる証明の困難性を考慮して起訴しなかつた事件は、一応量刑のうえにおいて、判断の外に置くのが妥当であろう。そうすると、被告人が有罪を免れないとしても、その被害金額は二千三百二十二円(九日分の賃金)にしかすぎないことになる。この少額の被害に対して、被告人は永い間未決勾留に服しているから、犯罪に対する応報または教育の目的は、一応達成せられたものとみてよいであろう。とくに、被告人は第一審判決言渡の後に長期間未決勾留されているがこのことは、第一審判決後における量刑判断のための事情の変更とみなければならない。永い未決勾留の後、ようやく保釈出所して働いている被告人を、この事件のためさらに懲役実刑に服さしめるのは、刑政の目的にそわないことにもなるおそれもある。失対人夫の貧しい生活の中から起つたこの事件に対し、被告人が有罪判決の言渡しをうける場合にも、原判決破棄のうえ、執行猶予の裁判をしていたゞくように希望する。

追加控訴趣意

一、控訴趣意第一点において、原判決認定の犯罪年月日に、被告人が崔得干の就労賃金を詐取した事実がないことを陳述した。その後調査の結果、つぎのような事実が判明した。原判決認定の犯罪期日のうち、七月三十一日及び八月七日は日曜になつている。職安人夫は日曜には就労せず、賃金ももらわないのが普通であるが、七日三十一日と八月七日は、盆の直前であるから被告人の所属していた自由労組で、大牟田市当局との間に、就労しなくても賃金を支給してくれるようにという交渉をした。交渉の結果、七月三十一日と八月七日の二日間だけは、登録してある職安人夫は就労カードを提出すれば、就労しなくても賃金を支給するという取扱をしてもらうことがきまつた。したがつて、この両日には、被告人が就労した事実はないし、また被告人は自分の賃金だけをもらつており、崔得干名儀の賃金は崔天竜がもらつていた。崔天竜が崔得干名儀の賃金をもらつたのは、その頃崔天竜は崔得干という名義で登録し、就労していたからである。この事実からみても、原判決認定の日時のうち少くとも七月三十一日と八月七日に被告人が詐欺していないことは明らかである。この二日間について被告人に詐欺行為がなかつたということは、他の期日における詐欺の成立をも疑わしめる有力な要因になり得るものである。

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